去年の10月、リスボンのサンタ・アポローニア駅を3回目に出た。何かが変わっていた。スマホを確認する必要がなかった。考えるまでもなくアルファマに向かって左に曲がり、坂を避ける裏道を抜けて、2回来たことのあるコーヒーショップにまっすぐ歩いて行った。カウンターの男が顔を上げて「アメリカーノでしょ?」と言った。旅をしていてほとんど感じたことのない感覚があった。ここに「属している」という感覚。
あの小さな瞬間は、ここ数年のどんな新しい街への初訪問よりも価値があった。
「新しい場所」の呪縛
旅行者の間には暗黙のルールがある。同じ場所にもう一度行くのは無駄だと。「バルセロナにもう行ったの?モロッコに行けるのに、なんでまた?」まるでその場所は読み終わって棚に戻した本みたいに。48時間いれば知り尽くしたみたいに。
以前は僕もそう考えていた。頭の中に国のチェックリストがあって、塗りつぶすことが進歩に感じた。行ったことのある場所にまた行くのは、すでに走ったラップをもう一周するようなもの。地図はこんなに広いのに、なぜ同じ道を辿る?
恥ずかしいくらい時間がかかって気づいた。僕は経験を集めていたんじゃない。パスポートのスタンプを集めていたんだ。何十もの都市を「済ませた」のに、ほとんどの場所についてホステルの名前と一つの観光スポットの前に立ったこと以外、何も語れなかった。
観光客 vs. 住人(たとえ1週間でも)
どんな街でも最初の訪問は観光客としての訪問だ。それはそういうもの。観光名所を回る。有名なランドマークの近くで食事する。他にどこに行けばいいか知らないから。ウォーキングツアーのルートを辿り、写真を撮り、列に並ぶ。街のグレイテストヒッツを見る。
2回目の訪問はまったく違う。エッフェル塔は見たからスキップ。メインの広場は高いとわかっているからスキップ。代わりに住宅街に入り込む。11区の裏通りにある、地元の人が30年通っているベトナム料理屋を見つける。地図なしで地下鉄に乗る。街が実際にどう機能しているのか -- 自分をどうプレゼンしているかじゃなく -- 理解し始める。
リスボンに初めて行ったとき、ベレンに行って、トラムに乗って、有名な店でパステル・デ・ナタを食べて、わかった気になっていた。2回目はモウラリアに泊まって、観光客のリスボンと本物のリスボンはほぼ別の都市だと気づいた。3回目は、大家が近所のフェスタに招待してくれて、40年その通りに住んでいる人たちと焼きイワシを食べる夜を過ごした。こういうことは1回目の旅では起きない。
快適さという過小評価されたもの
ある街に着いて、すでに基本を知っているということの価値は驚くほど過小評価されている。どの地下鉄がどこに行くか知っている。空港でタクシードライバーが使う手口を知っている。美味しい食事の地区と高すぎる地区を知っている。駅のコーヒーはまずいけど2ブロック東の店は最高だと知っている。
これは膨大なメンタルエネルギーを解放する。初めての訪問は、あらゆる決断にリサーチが必要だから疲弊する。どこで食べるか、どう行くか、どの地区が安全か、洗濯はどこでするか、この値段は適正か観光客価格か。再訪ではこの摩擦が消える。ドアを出て、ただ暮らす。
再訪では、初回には絶対キャッチできなかったことに気づく。午後遅くの特定の路地の光の変化。ある地区の夜の音。街のリズム -- 通りがいつ賑わい、いつ空き、いつ本当の生活が動くか。それは繰り返しからしか得られない。
場所は変わる。自分も変わる
7月のプラハと2月のプラハは、機能的に別の都市だ。夏に風情があった石畳は、冬は危険な氷になる。旧市街広場は混雑して暑いか、ほぼ人がいなくて不気味なほど静かか。ビアガーデンが閉まり、居心地のいい地下のパブが開く。同じGPS座標で、まったく異なる体験。
26歳で初めて訪れた東京に、34歳でもう一度行った。同じ街にいる別の自分だった。26歳のときは六本木のナイトライフを追いかけて、見つけられる限り安いラーメンを食べていた。34歳のときは朝を谷中の寺町で過ごし、高円寺の小さなカウンター席の居酒屋で食べた。店主は英語を話さないし僕は日本語を話さないけど、完璧にうまくやれた。合理的な時間に寝た。街はそこまで変わっていない。変わったのは自分だ。
再訪だけが明かしてくれるものがある。自分がどう変わったかということだ。同じ通りが、年齢を重ねた目、異なる優先順位、異なるバージョンの自分を通すと違って感じる。20歳のときに好きだった本を読み返して、若い自分が完全に見落としていたことに気づくのに似ている。
お金の議論
実用的な理由もある。初めて訪れる人は常にお金を無駄にする。観光地の近くの英語メニューのレストランで、平凡な料理に倍額を払う。地図を読み間違えて違う電車に乗る。「中心部」のホテルを予約したら、何の中心でもなかった。
2回目の人はそういうのを全部スキップする。どこにコスパがあるか知っている。地元の人が8ユーロ(約1,300円)で食べるランチスポットを知っている。自分のルートにはバスの方がメトロより安いと知っている。中心から15分だけど宿泊費が半額の地区を知っている。3回目のリスボン旅行は1回目の約60%のコストで済み、もっと美味しいものを食べて、もっといい場所に泊まって、もっと面白いことをした。
残るつながり
アルファマのある店のバーテンダーが、3回目の訪問で僕の顔を覚えていた。注文する前にドリンクを注いでくれて、仕事のことを聞いてくれた。あの小さなやり取り -- 家から遠い場所で、少しでも知られているということ -- 初めての訪問では絶対に得られないものだ。もう一度来ることが必要なんだ。
バンコクに行きつけの床屋がある。ポルトに窓際の席がいつもの席だと知っているコーヒーショップがある。ブエノスアイレスに、僕が好きそうな本を取っておいてくれる本屋のオーナーがいる。地元の基準からすれば浅い関係だけど、新しい場所をチェックするだけでは決して感じられない形で、世界を小さく温かく感じさせてくれる。
反論も正しい
わかっている、反対意見にも理があることは。人生は短い。世界は広大だ。まだ見ていない場所があって、それは本当に考え方を変えてくれるかもしれない。限られた旅行時間をリスボンの4回目に使うということは、マラケシュや京都やパタゴニアを見ないということだ。それは本当のトレードオフで、そうじゃないふりはしない。
どちらのアプローチにも価値がある。答えは全部片方じゃない。でも、ほとんどの旅行者は「新しい場所」に偏りすぎていると思う。デフォルトの前提はいつも「行ったことのない場所」で、もう一度行くという選択肢はほとんど検討されない。ただ、検討してみてほしいというだけだ。
自分だけの場所
何年も旅を続けていると、パーソナルな地図ができあがる -- うまく説明できない理由で自分を引きつけた街たち。僕にとってはリスボン、バンコク、ポルト、東京だ。客観的に「世界で最高の」都市ではない。でも僕の街だ。知っている。歴史がある。訪れるたびに、すでにある上に新しい層が加わる。
世界中に「自分の場所」を持つことは、別の種類の豊かさだ。パスポートのスタンプやマップのピンの豊かさじゃなく、深さの豊かさ。リスボンの中庭で夜にジャスミンがどんな香りがするか知っていること。バンコクの一つの地区が5回の訪問をかけてゆっくりジェントリフィケーションしていくのを見て、複雑な気持ちになること。ポルトのウェイターと4年前に始まったランニングジョークがあること。
初めての訪問は「見る」ため。2回目は「知る」ため。そして3回目、4回目で、その場所は本当に自分の一部になることもある。いつも新しいところへ行くべきだというプレッシャーはわかる。でも、一番いい旅のいくつかは、もう一度行った旅だった。



